「名前を呼んで」
前回のあらすじ
蓮は彩香のアパートに駆けつけ、朝霧の接触を阻止。封筒を処分させることに成功した。だがそれはヨミの囮だった。朝霧が持ち帰った彩香の「声紋」を使い、ヨミは彩香の声から「蓮」という発音を消す計画を進める。第二の鍵は封じられようとしている。
第8話 本編
冒頭——消えた音
深夜のリセット屋。
ヨミは録音機から抽出した彩香の声紋を、透明な液体の入った小瓶に溶かし込んでいる。瓶を傾けると、液体の中に声の波形のようなものが光の筋となって浮かび上がる。
ヨミは液体を一滴、空中に垂らす。液滴が落ちる途中で蒸発し、音になる。彩香の声で「く・ろ・さ・き」という音が再生される。
次にヨミはもう一滴垂らし、指先でそっと弾く。液滴が二つに割れる。片方から「く・ろ・さ・き」が聞こえる。もう片方は——無音。
ヨミが無音の液滴を指で摘まむ。
「“れん”。たった二文字。これさえ消せば、第二の鍵は永遠に成立しない」
ヨミは液滴を小さなガラス瓶に封じ込め、朝霧に手渡す。
「これを彩香さんの近くで割りなさい。霧が彩香さんの喉に染み込めば、”蓮”という音は二度と彼女の声帯を通らない」
朝霧が瓶を受け取る。無表情のまま。だが——瓶を握る指が、ほんの一瞬だけ躊躇するように止まる。
ヨミは見逃さない。
「……どうしました?」
朝霧はすぐに動き出す。「何でもありません」
扉が閉まる。ヨミはお面の奥で、初めて困惑の表情を浮かべている。
「”最初の客”が躊躇する……?感情のないはずの、あなたが?」
展開①——蓮と凛の作戦会議
早朝。蓮のマンション。凛が来ている。テーブルには缶コーヒーが二本と、凛が6年間書き溜めた調査ノートが広げられている。
凛が状況を整理する。
「ヨミの次の手は、彩香の声から”蓮”を消すこと。声紋を採られた以上、ほぼ確実に実行してくる。猶予は長くて今日中だ」
蓮が頭を抱える。「彩香さんに今すぐ俺の名前を呼んでもらうしかないのか。でもあの人にとって俺はほぼ他人だ。いきなり下の名前で呼んでくれなんて——」
凛が首を振る。
「無理に呼ばせても意味がない。第二の鍵の条件をもう一度確認しろ。“忘れ去られた側の人間が、忘れた者の名を呼ぶ声”。ただ発音するだけじゃ足りない。”呼ぶ”というのは、そこに意志がなければ成立しない」
蓮が顔を上げる。「意志……?」
「彩香が”蓮”という名前を呼ぶとき、そこに——たとえ無自覚でもいい——”この人を呼びたい”という感情が伴っていなければ、鍵にはならない」
沈黙が落ちる。記憶のない人間に、感情を込めて名前を呼んでもらう。不可能に近い。
そのとき、玄関のチャイムが鳴る。蓮が開けると、雫が立っている。制服姿。通学前だ。肩で息をしている。走ってきたらしい。
雫が言う。
「おじさん。“第一の鍵”、私が条件を満たせるかもしれない」
展開②——雫の提案
三人がテーブルを囲む。凛は初対面の雫を値踏みするように見ていたが、雫の目の真剣さを見て、すぐに態度を改める。
雫が説明する。
「第一の鍵は”奪われた者の涙”。記憶を奪われた者が、失った記憶の”断片”に触れて流す涙。——私にはまだ断片が残ってる。”お母さんに愛されていたという実感はないのに、それが怖い”っていう感覚」
凛がうなずく。「断片に触れて涙を流す。理屈の上では条件を満たせる可能性がある」
雫が続ける。
「でも問題がある。断片に”触れる”って、具体的にどうすればいいかわからない。怖いって感覚はある。でもそれだけじゃ、涙にはならない」
凛が考え込む。そして蓮を見る。
「蓮、第一の鍵と第二の鍵を同時に揃える方法がある」
蓮と雫が同時に凛を見る。
凛が立ち上がり、窓の外を見ながら言う。
「雫が”断片に触れる”ためには、失った記憶を刺激する状況が必要だ。母に愛されていた記憶。つまり——彩香が雫に”愛を伝える瞬間”を、雫が目の前で見ること」
雫の顔が強張る。
「お母さんが私に……。でもお母さんは、最近の私が冷たいことに傷ついてる。私から距離を置いてるのに——」
凛が振り返る。
「だからこそだ。彩香は今でも雫を愛している。記憶を奪われたのは雫の方で、彩香の愛情は無傷のまま残っている。その愛情を引き出す”きっかけ”さえあれば——雫の断片が反応する可能性がある」
蓮が理解する。「それと第二の鍵がどう繋がる?」
凛が言う。
「きっかけを作るのは、蓮だ。彩香にとって蓮は”忘れかけている存在”。でも体は覚えている。蓮が彩香と雫の前で、かつての関係を想起させる何かをすれば——彩香の中に眠る記憶が揺さぶられる。そのとき、感情を込めて蓮の名前を呼ぶ可能性が生まれる」
三人の目が合う。計画は見えた。だが不確定要素が多すぎる。
蓮が言う。
「要するに——俺と彩香さんと雫、三人が揃う場面を作って、彩香さんの愛情と記憶を同時に揺さぶる。博打だな」
凛が缶コーヒーを握りつぶす。
「今日中にやらなければ、博打を打つチャンスすらなくなる」
展開③——朝霧の異変
同時刻。街中を歩く朝霧。
ポケットにはヨミから渡された小瓶。彩香の声から「蓮」を消す霧。これを彩香の近くで割るだけでいい。任務は単純だ。
朝霧は彩香のアパートの方角へ歩いている。足取りは正確で、迷いはない。感情がないのだから、迷いようがない。
だが——朝霧は花屋の前で足を止める。
店先に白い百合が飾られている。昨夜、彩香に渡そうとした花束と同じ花。朝霧はそれを見つめている。
なぜ足が止まったのか、自分でもわからない。感情がないのだから、花に心を動かされるはずがない。任務に花は関係ない。
だが足が動かない。
朝霧の脳裏に、一瞬だけ映像が走る。鮮明ではない。霧の向こうに見える残像のような映像。
——誰かが花を持っている。白い百合ではない。小さな黄色い花束。それを、誰かに渡そうとしている。渡す相手の顔は見えない。だが、渡そうとしている手は——自分の手だ。
朝霧が瞬きをする。映像は消える。
「……何だ、今のは」
朝霧は自分の手を見つめる。感情はない。はずだ。だが胸の奥の、とっくに干上がったはずの泉の底で、何かが一滴だけ湧き出したような感覚がある。
朝霧はその感覚を無視して歩き出す。だが足取りが——ほんのわずかに、さっきより遅い。
クライマックス——三人の邂逅
夕方5時。蓮は会社帰りの彩香を、社屋のエントランスで待ち構えている。
「南条さん。少しだけ時間もらえませんか」
彩香は少し驚くが、昨夜のこともあり警戒はしていない。むしろ、蓮の顔を見ると不思議と安心する自分に戸惑っている。
蓮は彩香を近くのカフェに誘う。計画ではここに雫が「偶然」現れることになっている。凛は周囲を見張り、朝霧の接近を監視する役割だ。
カフェに入る。窓際の席。蓮と彩香が向かい合う。
蓮は慎重に会話を進める。仕事の話。日常の話。そして少しずつ、核心に近づいていく。
「南条さんには、お子さんがいるって聞いたんですけど」
彩香の表情が一瞬翳る。「ええ……娘がひとり。高校生で」
「仲いいんですか」
彩香が目を伏せる。
「最近はちょっと……。思春期ってこういうものなのかな。前はあんなに甘えてきてくれたのに。最近は目も合わせてくれなくて」
彩香の声が震える。蓮は見逃さない。この人の中にある、娘への愛情。それは本物だ。記憶の操作など受けていない、生のままの感情。
そのとき、カフェのドアが開く。
雫が入ってくる。
制服姿。カフェの中を見回し、彩香と目が合う。
彩香が立ち上がりかける。「しずく……?どうしてここに」
雫は硬い表情のまま歩み寄る。計画では「偶然を装う」はずだった。だが雫は演技をしない。まっすぐに母の前に立つ。
雫が口を開く。声が震えている。
「お母さん。私——最近、お母さんに冷たくしてた。理由はわからないけど、お母さんのこと、どう思えばいいかわからなくて」
彩香が目を見開く。「しずく……」
雫の手が震えている。ポケットから、あのプリクラを取り出す。母と一緒に撮った、小さなプリクラ。雫はそれを見ても何も感じなかった。何も感じないはずだった。
だが今、母の目の前に立っている。母の潤んだ瞳が自分を見つめている。その瞳の中に——自分の幼い頃の面影を見つけた母の愛情が映っている。
雫の中で、何かが軋む。
断片だ。あの「怖さ」。お母さんを愛していた記憶の、消しきれなかった核。それが今、母の視線を受けて——震え始めている。
彩香が雫の頬に手を伸ばす。
「いいの。理由なんてわからなくていい。あなたはお母さんの宝物だから。ずっとそうだったし、これからもずっとそうだよ」
雫の目から涙がこぼれ落ちる。
本人にも理由がわからない涙。愛された記憶がないのに。感じる力を失ったはずなのに。だが——体が覚えている。この手の温もり。この声の柔らかさ。記憶の底の底、ヨミですら届かなかった場所に根を張った母の愛の残滓が、雫の涙腺を突き破って溢れ出す。
雫が泣きながら叫ぶ。
「お母さん……っ!私、お母さんのこと——っ!」
その瞬間、カフェの空間にかすかな光が走る。蓮にだけ見える。凛にだけ見える。
第一の鍵——「奪われた者の涙」。成立。
彩香は泣いている雫を抱きしめている。二人の間に、壊れかけていた何かが繋ぎ直されていく。完全ではない。記憶は戻っていない。だが——愛情の導線が、たった今、再び通った。
蓮はその光景を見つめている。胸が痛い。記憶がなくても痛い。目の前の母娘の姿が、自分の中の何かを激しく揺さぶっている。
彩香が涙を拭い、蓮を見る。
「黒崎さん……ありがとうございます。あなたが声をかけてくれたから、しずくと——」
彩香が言葉を止める。蓮の目を見つめている。何かが引っかかっている。既視感。この人の目を、もっと近くで、もっと長い時間見つめたことがある気がする。
彩香の唇が動く。
「あの……あなたのお名前、下のお名前は——」
蓮の心臓が止まりそうになる。今、ここで。
だがその瞬間——カフェの窓ガラスの外に、白いシャツの人影が映る。
朝霧が、カフェの入口に立っている。
右手にはガラスの小瓶。ヨミから預かった「蓮」の音を消す霧。
朝霧はゆっくりと小瓶を持ち上げる。これを割れば霧が広がり、彩香の声から「蓮」が永遠に消える。
蓮が立ち上がる。間に合わない。距離がある。凛は外の監視で反対側にいる。
朝霧の指に力が入る。瓶が軋む。
だが——朝霧の手が、止まる。
朝霧は自分の手を見ている。震えている。感情がないはずの指が。花屋の前で見たあの映像が、もう一度脳裏に走る。黄色い花束を誰かに渡そうとしている自分。渡す相手の顔は——今度は少しだけ見える。笑っている。泣きながら笑っている。
朝霧の胸の奥で、干上がったはずの泉から——二滴目が湧く。
朝霧は小瓶を握ったまま、踵を返す。カフェから離れていく。割らなかった。割れなかった。
蓮は窓の外から朝霧の背中が消えるのを見届ける。全身の力が抜ける。
ラスト——未遂の名前
彩香が蓮に言う。
「すみません、何を言おうとしたか忘れちゃいました。……あの、下のお名前、何でしたっけ」
蓮は一瞬迷う。自分から名乗れば「蓮」という音は彩香の耳に届く。だが第二の鍵は彩香が自らの意志で呼ぶことが条件だ。蓮から教えて呼ばせたのでは、鍵にはならない。
蓮は笑う。苦しい笑みだが、温かい。
「また今度、教えますよ」
彩香が不思議そうに笑う。「変な人」
蓮は思う。
今日じゃなくていい。この人が俺の名前を、自分の記憶の底から引き上げてくれる日を待つ。それまで俺は——何度でもこの人の前に立つ。他人として。何度でも。
場面転換。夜の公園。凛が蓮を待っている。蓮が到着する。
蓮が報告する。「第一の鍵、成立した。雫が泣いた。——でも第二の鍵は、まだだ」
凛がうなずく。「だが朝霧が瓶を割らなかった。あれは想定外だ」
蓮も同意する。「あいつ……迷ってた。感情がないはずなのに」
凛が腕を組み、遠くを見る。
「”最初の客”は感情を代償に払った。だが私たちが証明したばかりだ——記憶を奪われても、体が覚えている。断片が残る。朝霧も同じなのかもしれない。感情を失っても、その”残り香”が——」
蓮が凛の言葉を継ぐ。
「あいつの中にも、まだ残っている」
二人は夜空を見上げる。星は見えない。都会の空は明るすぎる。だが雲の切れ間に一つだけ、強い光が瞬いている。
凛が呟く。
「第一の鍵、確保。第二の鍵、あと一歩。……残りは二つ。”店主の本当の名前”と、“自分自身の中にある鍵”」
凛がポケットから例の皺だらけの紙を出す。四つ目の鍵の欄。文字が滲んで読めない部分。
「第四の鍵だけが、どうしてもわからない。先代の挑戦者が命懸けで遺した暗号にも、ここだけ答えがなかった」
蓮が紙をじっと見つめる。滲んだ文字の下に、うっすらと図形のようなものが見える。水に濡れて滲んだのではない。最初からこう書かれている。意図的に読めなくしている。
蓮が指でなぞる。その図形は——鍵穴の形をしている。
「これ、ヨミの店の奥の扉にあった鍵穴と同じ形だ」
凛が息を呑む。「先代の挑戦者は、あの扉を見たのか——」
蓮の指が止まる。鍵穴の図形の中に、極小の文字が書かれている。ルーペがなければ読めないほど小さな字。
凛がスマホのカメラで拡大する。画面に浮かび上がった文字を、二人は同時に読む。
「鍵はお前自身だ。扉を開けるな。開ければ——お前が”次の店主”になる」
最後のコマ。リセット屋の店内。
朝霧が戻ってくる。小瓶は割られていない。ヨミの前に無言で差し出す。
ヨミが受け取る。長い沈黙。
「……割れなかった、ですか」
朝霧は何も言わない。ヨミはお面の奥から朝霧を凝視する。
「あなたの中に”残り香”がある。それは——あなたがリセットする前に愛した人の記憶の、最後の一雫。消したはずだったのですが」
ヨミが朝霧の胸に指を当てる。
「まだ温かい。困りましたね……“最初の客”」
ヨミが指を離す。背を向ける。棚の最上段、朝霧の瓶を見上げる。瓶の中の光が、他のどの瓶よりも強く脈打っている。
ヨミが呟く。今度こそ、本当に——恐怖を滲ませた声で。
「この店には”出口”がある。先代の挑戦者は、その意味に気づいて逃げた。だが今度の挑戦者は——逃げないかもしれない」
ヨミがお面を両手で押さえる。
「”次の店主”になる覚悟がある者が現れたとき——私は、ようやく——」
言葉はそこで途切れる。ヨミの体が一瞬だけ揺らぐ。まるで長い長い疲労に、ほんの一瞬だけ膝を折ったかのように。
次回予告
第9話「店主の名前」
第三の鍵——ヨミの「本当の名前」。その手がかりは、意外な人物が握っていた。朝霧の中に蘇りかけている「愛した人の記憶」。それは遠い過去、リセット屋がまだ存在しなかった頃——ヨミがまだ”人間”だった頃の記憶だった。
第8話のポイント
第8話の核心は三つの感情の同時爆発です。雫の涙(第一の鍵の成立)、彩香の蓮への既視感(第二の鍵への接近)、そして朝霧の「躊躇」(敵の内部崩壊の始まり)。この三つが同じカフェという空間で連鎖的に起こることで、物語の密度が一気に跳ね上がります。さらに第四の鍵の正体——「扉を開けた者が次の店主になる」という衝撃の事実は、物語全体の構造を根底から揺さぶります。蓮が記憶を取り戻すためには扉を開けなければならない。だが開ければ蓮自身がヨミと同じ存在になる。この究極のジレンマが、最終章に向けての最大のサスペンスとなります。そしてヨミが見せた一瞬の「揺らぎ」は、ヨミ自身もまたかつて「挑戦者」であり「囚人」であるという真実への伏線です。

