「店主の名前」
前回のあらすじ
雫の涙により第一の鍵が成立。彩香は蓮の下の名前を聞こうとしたが、あと一歩で届かなかった。朝霧はヨミの命令に反し、小瓶を割れなかった——感情を失ったはずの男の中に「残り香」が蘇り始めている。そして第四の鍵の正体が判明する。「扉を開けた者が次の店主になる」。ヨミは一瞬だけ、疲弊した姿を見せた。
第9話 本編
冒頭——雨の記憶
夢を見ている。
朝霧透の夢。感情を失ってから一度も見なかったはずの夢。
画面は灰色がかったセピア調。古い商店街。雨が降っている。朝霧は若い。今より10歳は若い、まだ大学生くらいの姿。傘を持っていない。軒先で雨宿りをしている。
隣に誰かがいる。同じように傘を持たず、雨宿りをしている人物。顔が見えない。声だけが聞こえる。
「——ねえ、傘、ひとつだけ買ってこようか。ふたりで入ろう」
若い朝霧が笑う。本物の笑顔。感情のある、温かい笑み。
「いいよ、もう少しこうしてよう。雨、好きだろ」
隣の人物が笑う。その笑い声は——鈴を転がすように澄んでいる。
朝霧は目を覚ます。自分の部屋。天井を見つめている。右手が、隣の空間を無意識に探っている。誰かがそこにいた気配を、手が覚えている。
朝霧は自分の右手を左手で押さえる。
「……誰だ。お前は、誰を探している」
胸の奥。干上がった泉。そこに今、三滴目の雫が落ちる。波紋が広がる。
展開①——凛の仮説
朝。蓮のマンション。凛と蓮、そして雫の三人が集まっている。雫は昨夜泣き疲れて眠り、今朝は少しだけ穏やかな顔をしている。記憶が戻ったわけではない。だが母との間に、目に見えない橋が架かり直した感覚がある。
凛がノートの新しいページを開く。議題は第三の鍵——ヨミの本当の名前。
「ヨミの正体について、私が6年間で掴んだ情報を整理する」
凛が指を折りながら挙げる。
ヨミは少なくとも数十年以上、リセット屋を営んでいる。外見は変わらない。年齢不詳、性別不詳。常にキツネのお面をかぶっている。人間離れした力を持つ——記憶の抽出、時間の巻き戻し、存在の希薄化。だが万能ではない。「隙間」がある。そして何より——疲弊している。
蓮が補足する。「昨夜、ヨミの体が一瞬揺らいだ。あれは演技じゃない。本当に消耗していた」
凛がうなずく。
「リセット屋の”力”は、ヨミの生命力で維持されている。客が来るたびに、記憶を奪うたびに、ヨミ自身もすり減っている。——つまりヨミは”不死”じゃない。”終われない”だけだ」
雫が口を挟む。「終われない?」
凛が第四の鍵の条件を読み上げる。「扉を開ければ、お前が次の店主になる」。
「ヨミもかつて”挑戦者”だった。記憶を取り戻すために扉を開け、先代の店主と入れ替わった。そして自分が店主になった。——ヨミは被害者であり、加害者であり、囚人だ。次の店主が現れるまで、永遠にあの店に縛られている」
沈黙が落ちる。蓮は昨夜のヨミの言葉を思い出す。
「”次の店主”になる覚悟がある者が現れたとき——私は、ようやく——」
ようやく、終われる。
蓮の中で、ヨミへの感情が複雑に渦巻く。憎しみ。怒り。そして——同情。
凛が話を戻す。
「第三の鍵は”ヨミの本当の名前”。ヨミが店主になる前の、人間としての名前だ。だが数十年以上前の、記録にも残っていない人物の名前をどう調べる?」
蓮が答える。
「ひとりだけ、知っている可能性がある人物がいる」
凛と雫が蓮を見る。
「“最初の客”——朝霧透。あいつがリセット屋の最初の客なら、ヨミが店主になった直後の時代を知っている。そしてあいつの中に蘇りかけている記憶——”愛した人”の記憶。もしその相手がヨミだったとしたら?」
凛の目が見開かれる。
「朝霧がリセット屋を訪れたのは、愛した人を失ったから。その愛した人が——ヨミの”中の人”だった可能性があると?」
蓮がうなずく。
「朝霧は花屋の前で立ち止まった。百合じゃなく、”黄色い小さな花”の記憶が蘇りかけていた。もしヨミの正体が朝霧のかつての恋人なら——朝霧の記憶の中に、ヨミの本当の名前がある」
展開②——朝霧への接触
夕方。蓮はひとりで街に出る。朝霧を探すためだ。凛は反対した。罠かもしれない。だが蓮には確信がある。昨夜、朝霧は小瓶を割れなかった。あの瞬間、朝霧はヨミの駒ではなくなりかけていた。
蓮はあの花屋の前で待つ。直感だった。朝霧はまたここに来る。記憶の残り香に引き寄せられて。
1時間が過ぎる。2時間。日が暮れ始める。
そして——朝霧が来る。
花屋の前に立ち、ショーウィンドウの花を見つめている。白い百合ではなく、隅に飾られた小さな黄色い花——ミモザの小束を。
蓮が隣に立つ。朝霧は蓮の存在に気づいているが、動かない。
沈黙が流れる。蓮が先に口を開く。
「その花、誰かにあげたことがあるんだろう」
朝霧が答える。声に抑揚はない。だが——以前より、ほんの僅かに遅い。言葉を選んでいるかのように。
「わかりません。記憶にない」
「体は覚えてるんじゃないのか。俺と同じだ」
朝霧が初めて蓮の顔を見る。ガラス玉のような瞳。だがその奥に——凍った湖の底で何かが動いているような、微かな揺らぎがある。
「あなたは、記憶を取り戻そうとしている。私にもそれができると?」
「できる。あんたの中にまだ残ってる。”あの人”の記憶が」
朝霧の瞳が揺れる。
「“あの人”……」
蓮が踏み込む。
「あんたが愛した人。あんたがリセット屋を訪れるきっかけになった人。——その人の名前を、思い出してくれ」
朝霧の体が硬直する。脳の奥で、凍りついた記憶が軋みを上げている。夢で見た映像。雨の商店街。隣で笑っていた人。鈴のような笑い声。
朝霧が両手でこめかみを押さえる。
「名前……名前が……あったはずだ。確かに、呼んでいた。毎日、何度も——」
朝霧の口が動く。音にならない。名前の形だけが唇に浮かんで消える。何度も、何度も。
蓮が朝霧の肩を掴む。
「思い出せ。あんたはあの人の名前を世界で一番多く呼んだ人間だ。その回数分の記憶が、全部消えるわけがない」
展開③——リセット屋の震動
同時刻。リセット屋の店内。
棚の瓶が一斉に震え始める。ガタガタと音を立てて。ヨミは棚の前に立ち、瓶を押さえようとするが、振動は止まらない。
最上段の朝霧の瓶が最も激しく震えている。光が脈打ち、瓶の表面にヒビが入り始める。
ヨミが呟く。
「朝霧……あなた、思い出そうとしているのね」
ヨミの声が震えている。恐怖か。期待か。その両方か。
ヨミがお面に手をかける。お面の下で、唇が動く。
「私の名前を呼ばないで。呼んだら——私は、あなたのことを——」
言葉が途切れる。ヨミの体が大きく揺らぐ。膝をつく。お面の隙間から、一筋の涙が顎を伝って落ちる。
ヨミは自分の涙に驚いている。何十年ぶりかの涙。店主としての力が、感情を封じ込めていたはずだった。なのに——
棚の瓶たちが、さらに強く輝く。まるで瓶の中の記憶たちが、ヨミの涙に共鳴しているかのように。
クライマックス——名前
花屋の前。
朝霧は苦しんでいる。こめかみを押さえ、歯を食いしばり、記憶の氷壁を素手で叩いている。感情がないはずの体が熱を持ち、額に汗が浮かぶ。
蓮はただ肩を掴み続けている。
朝霧の脳裏に、映像が走る。今度は霧が晴れかけている。
——雨の商店街。隣の人物。傘を買いに行こうとしている。振り返る。笑っている。髪は長い。目は——泣きそうなほど優しい目。
「傘、買ってくるね。待ってて」
若い朝霧が答える。
「——行ってらっしゃい、
名前。ここだ。名前がくる。凍りついた記憶の最後の壁。朝霧は全身の力を込めてその壁を叩く。
割れる。
砕ける。
光が溢れる。
朝霧の目が見開かれる。瞳のガラス質が砕けるように罅割れ、その奥から——人間の目が覗く。潤んでいる。涙が浮かんでいる。感情を失ったはずの男の目に、涙が。
朝霧が口を開く。声が震える。初めて——感情を伴った声で。
「——ゆき。雪村灯(ゆきむらあかり)。あの人の名前は、雪村灯だ」
その瞬間。
遠く離れたリセット屋の店内。ヨミが叫ぶ。お面の下から、押し殺していた声が噴き出す。
棚の最上段で、朝霧の瓶が砕け散る。中から光が溢れ出し、店内を満たす。
ヨミのお面にヒビが入る。一筋、二筋、三筋。お面の下から、素顔が覗く。
長い髪。泣きそうなほど優しい目。朝霧の記憶の中の人物と、同じ顔。
ヨミ——雪村灯は、崩れ落ちるように膝をつく。
「……呼んだのね。あなたが。あの名前を」
涙が止まらない。何十年分の、凍結されていた感情が一気に溶け出す。
「私は……もう忘れてほしかったのに。あなたにだけは、忘れていてほしかったのに——」
ラスト——第三の鍵
花屋の前。
蓮のスマホが震える。凛からのメッセージ。たった一行。
「リセット屋が揺れた。棚の瓶にヒビが入り始めている。何が起こった?」
蓮は朝霧を見る。朝霧は立ち尽くしている。涙を流している。感情を失った男が泣いている。美しく、痛ましい光景。
朝霧が蓮を見る。もうガラス玉の目ではない。人間の目だ。
「思い出した。全部じゃない。でも——名前だけは。灯。彼女の名前は、灯。雨の日に出会った。ミモザの花が好きだった。笑うと——世界が明るくなるような人だった」
朝霧が自分の胸を押さえる。
「この痛みは……これが”感情”ですか。こんなに……痛いものだったんですか」
蓮は静かにうなずく。
「ああ。痛い。でも——その痛みが、あんたが人間だった証だ」
花屋のショーウィンドウに映るふたりの男。片方は記憶を失った男。もう片方は感情を取り戻しかけている男。ふたりの間に、小さな黄色いミモザの花が揺れている。
蓮は空を見上げる。
第三の鍵——「店主の本当の名前」。雪村灯。成立。
残る鍵は、あとひとつ。
最後のコマ。リセット屋の店内。
お面が割れ落ちたヨミ——灯は、床に座り込んでいる。素顔が完全に露わになっている。若い女性の顔。だが目の下に深い隈があり、肌は蒼白い。何十年もの店主としての消耗が、お面の下に隠されていた。
灯は棚を見上げる。ヒビの入った瓶たち。光が漏れ出している。記憶たちが、解放を求めて暴れている。
灯が呟く。声はもうヨミのものではない。雪村灯としての、かすれた声。
「あと一つ。最後の鍵が揃えば、扉が開く。そして——」
灯は奥の扉を見る。無数の鍵穴。その一つ一つが、かすかに光り始めている。
「黒崎蓮。あなたが扉を開けたら、あなたが次の店主になる。私と同じように、永遠にこの店に囚われる。——それでも、来るの?」
灯の目に宿るのは、敵意ではない。祈りだ。来てほしいのか、来てほしくないのか、自分でもわからない——そんな、引き裂かれた祈り。
次回予告
第10話「最後の鍵」
四つの鍵が揃うとき、扉は開かれる。だが最後の鍵は「自分自身」——蓮が扉を開ければ、蓮は次の店主になる。すべての記憶を返す代わりに、自分が永遠の囚人になる。蓮の出した答えは。凛の、雫の、彩香の、そして朝霧の想い。すべてが交差する最終決戦——「リセット屋」、クライマックスへ。
第9話のポイント
第9話は敵の人間化という物語の最も繊細な転換点です。朝霧が感情を取り戻していく過程は、蓮の「記憶を失っても体が覚えている」というテーマの鏡像になっています。そしてヨミの正体が朝霧のかつての恋人だったという事実は、リセット屋の物語を「善対悪」から「愛し合ったふたりの悲劇」へと変質させます。灯は朝霧を忘れさせたかった。自分が店主として永遠に囚われている姿を、愛した人に見せたくなかった。だから朝霧を「最初の客」として記憶を奪い、感情を消し、近くに置きながらも——決して思い出させなかった。この「残酷な優しさ」がヨミというキャラクターに深い陰影を与え、最終話での蓮の選択をより切実なものにします。

