漫画【リセット屋】第6話「他人としてのはじまり」

「他人としてのはじまり」
前回のあらすじ
蓮はかつてリセット屋の代償を「拒絶しかけた」女性・桐生凛と出会う。凛は6年間の調査で「四つの鍵」の存在を突き止めていた。記憶を取り戻すため、蓮は第二の鍵——「忘れられた者の声」を求めて、南条彩香に近づくことを決意する。一方、ヨミは棚の最上段から「最初の客」の瓶を取り出し、反撃を開始する。
第6話 本編
冒頭——朝のルーティン
朝7時。蓮はマンションの洗面台で顔を洗い、鏡を見つめる。胸ポケットの写真をもう一度確認する。写真はさらに色褪せている。女性の輪郭がぼんやりと滲み始めている。
蓮のモノローグ。
写真が消えかけている。”存在が薄れる”とはこういうことか。急がないと——この写真からも、あの人が消える。
蓮は凛から渡された携帯番号にメッセージを送る。「今日から動く」。返信はすぐに来た。たった一言。
「焦るな。自然に近づけ。不自然な接触はヨミに感づかれる」
展開①——受付の彩香
出社。蓮はいつもどおりエントランスを通る。受付の彩香が「おはようございます」と笑顔で挨拶する。蓮も「おはようございます」と返す。
それだけ。それだけのことが、こんなにも難しい。
蓮は自分の心臓が早鐘を打っていることに気づく。記憶がないのに、体が反応している。手のひらに汗。喉の奥が詰まる感覚。まるで体だけが、脳より先に彩香を「覚えている」かのように。
昼休み。蓮は社員食堂で、意を決して彩香の近くの席に座る。彩香は窓際でひとり、おにぎりを食べている。
蓮が話しかける。「南条さん、でしたっけ。受付の」
彩香が顔を上げる。「はい。……えっと、営業部の方ですよね?」
蓮がうなずく。「黒崎です。黒崎蓮」
その瞬間——彩香の箸がわずかに震える。ほんの一瞬。彩香自身も気づいていない。だが蓮は見逃さない。
この人の体も、覚えているんだ。
ふたりはぎこちなく会話を始める。天気の話。食堂のメニューの話。どこにでもある、何の変哲もない会話。だが蓮は気づく。彩香と話していると、胸の痛みが少しだけ——温かい痛みに変わることを。
展開②——放課後の雫
場面転換。夕方の商店街。
蓮がコンビニから出ると、道の向かいに雫がいる。制服姿で、スマホを見ながらひとりで歩いている。蓮は一瞬迷い、声をかける。
「南条……雫さん、だよな」
雫が怪訝そうに振り向く。「誰?……ああ、リセット屋にいたおじさん」
「おじさんはやめてくれ。28だ」
雫は警戒しながらも足を止める。蓮は単刀直入に聞く。
「最近、お母さんとの関係はどうだ」
雫の表情が一瞬曇る。だがすぐに無関心を装う。
「別に。普通だよ。……ていうか、なんであんたにそんなこと聞かれなきゃいけないの」
蓮は言う。「普通、か。じゃあ聞くけど、お母さんの作る朝ごはんで一番好きなメニューは?」
雫が口を開きかけて、止まる。眉をひそめる。考え込む。
——出てこない。
母が作った料理の記憶。一緒に食卓を囲んだ朝の光景。温かい湯気。「いってらっしゃい」の声。すべてが霧の中に沈んでいて、掴もうとしても指の間をすり抜ける。
雫の目に、初めて不安の色が浮かぶ。
「なんで……思い出せないの。お母さんのこと、ちゃんと知ってるはずなのに——なんで何も浮かばないの」
蓮は静かに言う。
「君はリセット屋で”お母さんに愛されていた記憶”を代償に払った。事故を防ぐ代わりに。——君のお母さんは今も君を愛してる。でも君はそれを”感じる力”を失ったんだ」
雫の目から涙がこぼれる。涙の理由が自分でもわからない。愛された記憶がないのに、失ったという事実だけが胸を刺す。
蓮は雫の肩にそっと手を置く。
「取り戻す方法がある。——力を貸してくれないか」
展開③——ヨミの”次の手”
その夜。蓮のマンションの前。
蓮が帰宅すると、玄関の前にひとりの男が立っている。
30代半ば。端正な顔立ちに穏やかな微笑み。清潔感のある白いシャツ。誰が見ても好感を持つ、完璧な「善人」の佇まい。
だが蓮は、その男を見た瞬間、本能的に背筋が凍る。
男が頭を下げる。
「初めまして。僕は——朝霧透(あさぎりとおる)と言います。あなたが”リセット屋”について調べていると聞いて」
蓮が警戒する。「誰から聞いた」
朝霧は微笑みを崩さない。
「僕もかつてリセット屋の”客”でした。あなたと同じように、記憶を奪われた。だから協力したいんです」
蓮は直感的に嘘を見抜こうとするが、朝霧の言葉には矛盾がない。目も泳いでいない。声も震えていない。完璧すぎるほど完璧な誠実さ。
蓮はひとまず中に入れず、マンションのエントランスで話を聞く。朝霧はリセット屋の仕組みについて驚くほど詳しい。瓶の性質、記憶の劣化速度、ヨミの行動パターン。凛が6年かけて集めた情報に匹敵する——いや、一部は凛すら知らない情報を持っている。
蓮が聞く。「あんた、何を失ったんだ。リセットの代償で」
朝霧が少しだけ悲しそうな顔をする。あまりにも自然な悲しみの表情。
「”自分が誰かを傷つけた記憶”です。僕は過去に大切な人を深く傷つけたらしい。でも、その記憶がないから——何をしたのか、誰を傷つけたのか、わからないまま生きている」
蓮は思わず同情しかける。だがその瞬間、凛からのメッセージが届く。
「今すぐ離れろ。その男は”仕込み”だ」
蓮の血が引く。画面を見て、顔を上げる。朝霧はまだ微笑んでいる。何も変わらない笑顔。
蓮は平静を装って言う。「今日はここまでにしよう。また連絡する」
朝霧は素直に引き下がる。「わかりました。いつでも声をかけてください」
去り際、朝霧が振り返る。その一瞬——街灯の光の加減か、朝霧の瞳がガラス玉のように無機質に光る。
蓮がそれに気づいたとき、朝霧はもう角を曲がって消えている。
クライマックス——凛の警告
蓮は公園に走る。凛がベンチに座って待っている。いつもの缶コーヒーはない。表情が険しい。
蓮が聞く。「あの男は何者だ」
凛が低い声で答える。
「”最初の客”だ。おそらく」
蓮が息を呑む。ヨミが棚の最上段から取り出したあの瓶。
凛が続ける。
「リセット屋ができたのは少なくとも数十年前だ。最初の客が何を願い、何を代償に払ったのか——私の調査でも突き止められなかった。だが一つだけわかっていることがある」
凛が蓮を正面から見る。
「”最初の客”は、リセットの代償で”人間としての感情”を失った。——あの男が完璧に見えるのは、感情がないからだ。喜びも悲しみも怒りも恐れもない。だから嘘が完全に見抜けない。感情の揺らぎがゼロだから」
蓮は朝霧の顔を思い出す。完璧な微笑み。完璧な悲しみ。すべてが演技だった。感情のない人間が、人間の感情を完璧に模倣していた。
凛が立ち上がる。
「ヨミは朝霧を使って私たちに近づいてきた。目的はおそらく二つ。一つは”四つの鍵”の進捗を監視すること。もう一つは——」
凛が言葉を切る。遠くの街灯の下に、人影がある。白いシャツ。
朝霧が、こちらを見ている。
どうやってここがわかった。尾行された形跡はなかったはずだ。
凛が蓮の腕を掴み、反対方向に歩き出す。早足で。振り返らずに。
「もう一つの目的は、“忘れられた者の声”——第二の鍵を、絶対に揃えさせないことだ。あの男はおそらく、南条彩香に接触する」
蓮の足が止まる。
「彩香さんに……?何をするつもりだ」
凛が答える。
「彩香さんがあんたの名前を呼べば、第二の鍵が成立する。だからヨミは——彩香さんの記憶から、あんたの存在の”最後の欠片”を完全に消しにくる。あの男を使って」
ラスト——彩香の夜
場面転換。彩香のアパート。
彩香はソファに座り、アルバムをめくっている。娘の雫が最近冷たい理由を考えながら。写真の中の幼い雫は満面の笑みで彩香に抱きついている。
ふと、アルバムの隙間に一枚の写真が挟まっているのに気づく。彩香と、誰かが映っている写真。だが隣の人物の顔がぼんやりと滲んでいて判別できない。
彩香は写真を手に取り、目を凝らす。指でそっと滲みを拭う。すると——ほんの一瞬だけ、輪郭が浮かび上がる。
彩香の唇が無意識に動く。音にならない言葉。自分でも何を言おうとしたのかわからない。
ただ、口の形は——「れん」と読めた。
そのとき、アパートのインターホンが鳴る。
モニターに映っているのは、白いシャツの男。穏やかな笑顔。
「夜分にすみません。南条彩香さんですか?僕は朝霧と申します。——お届けものがあるんです。あなたの”忘れていた記憶”に関する」
彩香が息を呑む。画面の中の朝霧が、微笑んでいる。
最後のコマ。彩香の手の中の写真から、隣の人物の輪郭が——完全に消えかけている。
次回予告
第7話「消える輪郭」
朝霧が彩香に接触する。蓮は間に合うのか。そして雫は、蓮の「力を貸してくれ」という言葉に、ある決断を下す。第一の鍵「奪われた者の涙」——その条件を満たすのは、蓮ではなく雫かもしれない。鍵探し編、加速する。
第6話のポイント
第6話は三つの線を同時に走らせる構成です。第一の線は「蓮と彩香の再接近」。記憶を失ったふたりが他人として出会い直す切なさが物語の情緒的な核になります。第二の線は「雫の覚醒」。自分が何を失ったのかすら自覚できなかった雫が、蓮の言葉で初めて喪失に気づく場面は、第3話の伏線を回収しつつ、雫を「鍵探し」の仲間に引き込みます。そして第三の線が「朝霧透の登場」。ヨミの刺客でありながら「感情を失った人間」という設定は、リセット屋の代償の究極形を体現しています。感情がないからこそ完璧に人間を演じられるという逆説が、読者に根源的な恐怖を与えます。三つの線がラストで彩香という一点に収束する構造が、次話への強烈な引力を生んでいます。
